2026年2月 今月の本
- 1 日前
- 読了時間: 2分

「なぜ日本文学は英米で人気があるのか」 鴻巣友季子著 ハヤカワ新書
金融翻訳を生業にしていながらフィクションの翻訳本をあまり手にすることがない、翻訳者の片隅にも置けない人間なのですが、2025年のダガー賞翻訳部門を大谷晶「ババヤガの夜」が受賞したことは驚きを持って受け止めました。この界隈では、訳者のサム・ベット氏のウィットにとんだ通訳も話題になり、そちらもYouTubeで拝見しました。そんな疎い人間にとって、このタイトルは手に取るのに十分刺激的でした(こちらも図書館におねだりして新刊を買ってもらいました)。
昨今の日本文学が村上春樹の一強時代から転換した背景には、女性(特に若手)作家の台頭、若手読者の増加があるそうです。制作手法や発表の場の民主化が進んでいることはひしひしと感じますが、その中で書き手も読み手も新しい層がどんどん出てきており、それは文学だけでなく、漫画、キャラクター、音楽などあらゆるジャンルで見られます。文化の裾野が広がると同時にグローバリゼーションが進むという、好循環が起きているとも言えるわけですが、AIがこれだけ進化してくる中、そもそも人間が想像力を駆使して作っていないものが巷にあふれかえっています。
その中にあって、翻訳の基本とされる「何も足さない、何も引かない」という定義自体を考え直すべきなのではないかと思います。
翻訳は、コンテクストが違う状況下で書かれた言語を別の言語に変換し、それを、変換されたコンテクストで生きている人に最大限のストレスなく伝えることだと私自身は理解しています。したがって言葉だけを等価に置き換えても、読み手の理解が必ずしも促進されるわけではなく、時に補い、時に不要なものを取り除き、文構成自体を変化させた方が良いケースも出てきます。この部分はまだAIだけでは難しいのではないかと、希望的観測も含めそう考えています。逆に言えば、文節ごとに分けて、左の単語を右に置き換える作業としての翻訳ではAIには敵わないし、その類の仕事はもうなくなるのでしょう。誤解のなきよう言えば、AIのポストエディット的な仕事はこれからどんどん増えるし、AIに学習させる作業も増えるでしょう。それを翻訳と呼ぶのかは人によるのかもしれません。
最近日本の本屋に行くと、台湾や韓国の作家の翻訳本もかなり目にします。ここでもグローバル化、読者層の拡大、伝え手(作家、翻訳者)の増加の勢いを感じます。トランプ政権の政策で米国留学や移民に対する目が厳しさを増していますが、文化を通じた理解は歩みを止めません。頑張ろう。
★★★★★



