ネイティブの書いた英文を1円で直せと言われた件
- 4月6日
- 読了時間: 4分

最近、付き合いのない翻訳会社から、「ネイティブが書いたIR翻訳文書をチェックしてくれないか」というメールが届いた。報酬は、1文字1円でお願いしたい。
思わず目を疑った。
普通の会社なら、新人が作ったパワポ資料をチェックするのは上司である。上司は新人より給与が高く、経験も責任も重い。新人のミスを見つけ、論点の甘さを補い、表現を整え、必要なら構成そのものを立て直す。チェックする側には、書く側以上の力量が求められる。それが当たり前である。
ところが、翻訳の世界ではしばしば逆のことが起きる。訳す人より、直す人のほうが安い。下手をすると、翻訳者より校閲者の方が低く見積もられる。しかも今回は、ご丁寧に相手が「ネイティブが書いた英文」であるとまで書かれていた。
要するにこういうことである。「ネイティブが書いたそれなりの英文を、金融やIRの文脈まで踏まえて点検し、必要なら直してほしい。でも直さなくてもいいかもしれないから、値段は安くしてちょうだい」
ずいぶん都合のよい話である。
もちろん、翻訳会社側にも理屈はあるのだろう。ゼロから訳すより、すでに英文があるものを直すだけなら少ない時間でできる。それは確かだ。だが、それはある程度の実力のある翻訳者が書いた文章を校閲する場合に限る。
校閲は、誤字脱字を見つけるだけの仕事ではない。少なくとも、まともな金融・IR翻訳の校閲はそうではない。ロジック、数字、用語、文脈、論理、トーン、開示文書としての適切さ、投資家にどう読まれるかまで見なければならない。しかも厄介なのは、原文がある翻訳よりも、いったん出来上がった英文を直す方が難しいことである。たまに自分が翻訳する以上に校閲に時間がかかるときだってあるのだ。
訳文には元の日本語がある。おかしければ原文に立ち返れって書き直せばいい。しかし、校閲者はあくまで翻訳者の黒子なのだ。文章を翻訳した人がオーナーであり、それを最初から否定して書き直してしまったらそれは校閲ではない。翻訳×翻訳、それこそ二重コストになる。その匙加減が難しいのだ。
それでも「翻訳よりチェックの単価は安くてよい」と考えられがちなのはなぜか。
理由は単純である。成果物が見えにくいからだ。
翻訳は、ビフォーアフターがわかりやすい。日本語が英語になる。あるいは英語が日本語になる。依頼者にも「仕事をした感」が見えやすい。一方、校閲は違う。優れた校閲は元の文章を生かしつつ、事故を未然に防ぎ、文章の質を底上げし、読者に違和感を与えない状態にする。だが、それは「何もしなかった」ように見える。この「見えなさ」が、仕事の価値を不当に低く見せる(もちろん赤字だらけの校閲済みファイルにはばっちり証跡が残っているが)。
さらに悪いことに、翻訳業界には昔から、「翻訳する人が主役で、チェッカーは補助」という雑な序列感が残っている。なぜかトライアルでも「チェッカーから」宜しく、と言われる。しかし実務では、必ずしもそうではない。校閲者は最後の砦、ラストリゾート、しんがりなのだ。金融、IR、法務のように、用語の一語、トーンの一段、数字の一箇所が意味を変える分野ではなおさらである。原稿を“読む側の目”で疑い、崩れた論理を補修し、必要なら訳し直す。それは下請け作業ではない。かなり高度な編集判断である。
にもかかわらず、単価だけは安く設定される。なぜなら、発注する側が校閲を「保険」か「最後の軽い確認」程度にしか見ていないからである。だが本来、校閲は保険ではない。品質そのものを支える工程である。ここを削れば、文章はそれらしく見えても、信頼性のない成果物になる。
しかも、こんな使い方を続けていれば、本当のチェッカーはそのうちいなくなる。手間に見合わない報酬で、重い責任だけを負わされる仕事を、経験のある人間がいつまでも引き受けるはずがないからである。
その結果、残るのは何か。面倒なので深くは見ない。明らかな誤字脱字だけ拾って、あとは「見たことにする」。そんな「死んだふりチェッカー」の増殖だ。
今年も、3月決算企業の開示ラッシュが始まる。そして今年は、AIが本格的に導入される初年度になるのではないかと思う。
すでにレートは、健康で文化的な生活を送れるとは言いがたい水準にまで下がっている。その状態で、AIの下訳に人間が薄く目を通すだけの案件が大量に流れ始めたらどうなるか。
どれだけの“事故物件”が市場に出回るのか。少し気になる。いや、正直に言えば、かなり気になっている。
繁忙期が終わってからコッソリ各社の英文開示を覗いてみよう思う。英文開示作業自体は進んでいるのに、品質は下がったなんて海外投資家に言われないと良いのだが・・・・。
2026年3月6日



